電気の安定供給に従事する社員が7年ぶりに訪れた、福島第一原子力発電所
2018/04/04
福島第一原子力発電所の事故直後、多くの社員や協力企業の方々が、過酷な現場での事故対応に従事しました。その一人であり、外部からの電源をすべて失ってしまった発電所に電気を送るため、変電設備の建設に挑んだ社員が、7年後の今、再びその現場を訪れました。
東京電力パワーグリッド株式会社
大塚支社 板橋制御所
変電保守グループマネージャー
勅使河原 良次
1983年4月入社。南東京電力所新宿工務所世田谷総合制御所保修課にて、変電所の巡視・点検に携わる。2011年3月11日の東日本大震災当時は、東京支店変電技術グループ・変電直営機動チームのチームリーダー。2014年7月より現職。
一刻も早く電源を復旧するために、福島へ向かうことを決断
私は、入社以来、長く「変電」という仕事に携わってきました。
「変電」とは、発電所で作られた電気をお客さまのもとへお届けする過程で、いくつもの変電所を経由しながら少しずつ電圧を調整し、最終的には、電柱などの変圧器でお客さまが安全に使っていただける電気に変換することです。「変電」は、ご家庭だけでなく、工場やビルなど、電気が使われるあらゆる場所に電気を安定してお届けするために必要不可欠であり、発電所にも必要となります。
ですから、2011年3月11日、東日本大震災で外部からの電源をすべて失ってしまった福島第一原子力発電所では、一刻も早く電気を復旧するために、この「変電」のための設備の設置が必要だったのです。
当時、東京支店・変電技術グループ・変電直営機動チームのチームリーダーだった私は、1号機が水素爆発を起こした翌日の3月13日、発電所での変電設備の設置要請を受けました。行かなくてもよいという選択肢もありましたが、そのときは、「私たちにしかできない」という思いと使命感で一杯になり、「よし、行くぞ!」という決断以外が頭に浮かぶことはありませんでした。今思えば、他のことを考える余裕のなかった私の決断に、チームのメンバーたちがついてきてくれたことに、どう感謝すればよいのかわからず、ただ「ありがとう」というだけでほかに思いつく言葉がありません。
過酷な環境のなかで、電源の復旧に挑んだ4日間
3月15日の朝、東京を出発した私たちは、10時間以上かかって当時事故対応の拠点となっていたJヴィレッジに到着し、他の支社や本社、協力企業からも集まっていた応援部隊と合流しました。そこで、防護服や全面マスクの扱い方、現場での放射線防護についての指導を受け、情報が錯綜するなか、まずは状況を把握するため発電所へ向かいました。
それからの4日間は、「原子炉を冷やすために、一刻も早く電源を回復しなければならない」という思いだけが、私たちを突き動かしていました。
実際に作業する現場は、3、4号機に近い非常に放射線量の高い場所だったので、作業時間を短くするために、チームを組んで交代で作業にあたりました。交代時間になり現場に戻ると、そこには黙々と作業に集中している仲間の姿がありました。私は、その後ろ姿に向かって背中に書かれた名前を大声で呼び、「交代します!」と声をかけました。そのときは、その社員に、ただただ頭が下がるばかりで、劣悪な環境下で作業がはかどらないことが悔しくてなりませんでした。
ですから、3月18日に待機していた私たちのもとに、「ケーブルがつながって完成したぞ!」という連絡が入ったときには本当にうれしかったですし、周囲では大きな拍手がわき起こりました。その後、みんなでコーラを手に乾杯したことは、今でも忘れることができません。人生で一番おいしいコーラでした。
そして、一週間ぶりに家に帰り着いたとき、まだ幼かった娘が「お父さん、頑張ったね」と言って飛びついてきたときには、さすがに涙を抑えることができませんでした。
あれから7年が経過し、その間、廃炉の作業現場も除染が進んでどんどん働きやすくなっていることは聞いていました。社員が執務する新事務本館が完成し、そこにコンビニが開店したり、大熊町に設置された給食センターから暖かい食事が提供されるようになったりしたことも知っています。でも、今回、福島第一原子力発電所を再訪する機会をいただき、それを実際に目で見るのははじめてです。そこで自分がなにを思うのか・・・、正直なところ、福島へ向かう前は不安と期待が入り交じり、少し緊張していました。
7年後の今、あのときの現場を再び訪れて思うこととは
7年前、私たちは、福島第一原子力発電所から約20㎞離れたJヴィレッジで、防護服と全面マスクを装着して現場へ向かいました。それが今では、一般の服装で発電所の構内にも入ることができます。ガレキが散乱し、車が通るのがやっとだったところもきれいに整備され、除染が進み、構内の作業環境は大きく改善されています。それは、7年ぶりに訪れた私にとっては劇的な変化でした。
それと同時に、働く環境も大きく変わっていました。2016年に完成した社員が執務する新事務本館は、明るく開放的で、新しいオフィスにお邪魔しているという感じです。吹き抜けのオープンスペースのコーナーでは、打ち合わせをする協力企業の方々の姿も多く、たくさんの人たちが、難しい作業を安全に進めるために努力し、日々着実に廃炉が進んでいることが感じられました。
私は、その新事務本館に隣接する入退域管理施設でチェックを受け、今回一番訪ねたかった当時の作業現場へ向かいました。構内の約95パーセントが一般作業服で作業できるグリーンゾーンになった今でも、そこは防護服と半面マスクが必要なイエローゾーンです。それだけ過酷な現場だったのだと当時を振り返り、思い出しながら、防護服に着替えて現場へ続く道を進みました。
そして、そこで私が目にしたのは、あのときのままの姿で残っていた設備です。誰もが睡眠不足のなか、不安を抱えながら必死で設置したその設備に向かって、「すごいな」という言葉を何度も投げかけました。それは、ともに作業に挑んだすべての仲間たちへの思いでもありました。
よく、「どうしてあのような過酷な条件のなかで、作業を成功させることができたのですか?」と聞かれます。その答えは、変電部門が長年培ってきた技術の賜物であり、電気を作り、送り、安定してお届けするという使命を担った私たち東京電力グループが、一丸となって果たすべきことだったからです。
今回、7年ぶりに福島第一原子力発電所を訪問し、あのときを振り返るとともに、改善が進む現場を見て、これからの福島、未来の福島へ向けても、私たち変電部門ができることはまだたくさんあると思いました。だからこそ、私はその一員として、与えられた職務に全力で取り組みながら、あのときの挑戦と仲間たちへの感謝の思いを忘れずに、これからも福島の復興に関わっていきたいと思います。